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HPについて 週刊卍 恭介の部屋 空が落ちてくる! 試聴室 更新履歴
 

週刊卍 2002

 

週間ACTに寄せた原稿を加筆修正したものです。週刊金曜日批判の大合唱などを見る
と、まるで9・11以降のアメリカの状況の様です。いまこそ論議を!批判大歓迎。


再び、拉致問題雑感 「朝露」に寄せて 2002年12月2日

その歌を始めて知ったのは77年、冬、韓民統という団体がキムジハの演劇「金冠の
イエス」を上演した会場であったろう。それは朴政権下で多数発生していた在日韓国
人政治犯救援のための催しであったように記憶している。芝居は素晴らしいものであっ
た。最後を飾ったテーマ曲の荘厳なまでの哀切さは耳に残った。その作曲家のLPレコー
ドをそこで買い求めた。歌手の名はキムミンギ。本国で発禁となった彼の作品を韓民
統が日本でプレスして販売を継続していたのである。
 どの曲もシンプルながら美しい曲で、韓国のフォークソングの水準の高さに瞠目し
た。中でも、「朝露(アチムイスル)」は何度も何度も聞きたくなる名曲だった。
墓地の前の朝の風景を淡々と描いているだけの歌詞である。なぜ墓地なのかの説明は
無い。当時の文脈に置いてみれば、墓地にいる死者達は民青学連事件の犠牲者をはじ
め、民主化闘争の中で奪われた命の事が自然に想起された。故李学仁監督ととある詩
人のお宅で一緒になった時、彼からこの歌が韓国の民衆にとってどれほど重要かとい
う話しを聞かされた。彼の遺した「詩雨おばさん」という映画の中でこの曲は雄弁に
使われてもいた。ハングルのできる先輩が作ってくれた日本語訳をたよりに、たどた
どしくコードを辿り歌いはじめていた。が、翌年の夏、ある闘争で娑婆にいられなく
なった時、慌てた救援関係者によって処分され、そのレコードは永久にぼくの元を去っ
た。
おもえば以来二十年もこの歌を歌い続けている。が、この歌と本当に巡り会ったと思っ
たのはほんの数年前に過ぎない。九州の筑豊で毎年ライブを企画してくれるメンバー
から、強制連行された朝鮮人達の墓の前でこの曲を歌ってくれと頼まれた。炎天下、
蚊にしたたかに噛まれながら、ふと、この曲は「歴史の前に立つ人間」の歌なんだ!
と思いあたった。人はそれぞれ与えられた己の「時間」を生きる他は無いが、意識し
ようがしまいがそれは一こまとして歴史に組み込まれている。どのような人も歴史か
ら自由である事はできない。強制連行され、無念のまま石塔もなしに埋葬された人々
はこのように歴史にむち打たれた。歴史は時として不条理で残忍である。その不条理
は、その理不尽さの故に、その前に立つものを無力感に落ち入らせたり、諦めさせた
りする。しかしキムミンギは歌う。「荒野の果てに 私は行く 悲しみ乗り越え 私
は行く 」

肉親を拉致され、あまつさえ「死んでました」と通告されることの痛みはメディアが
ことさらに強調するまでも無く凄まじいものだろう。亡くなった方もさぞ無念であっ
たろうと思う。拉致問題に関して共和国の指導体制が厳しく糾弾されるのは当然であ
る。さらなる情報開示や補償要求も当然なされるべきだと思う。もし日本赤軍が拉致
に関わっているとしたら彼らも厳しい批判を免れまい。また、ぼくの父もかつては北
への帰国運動を一辺の疑いも無く「正しい事」として支援していた。
進歩的と言われる陣営が今まで共和国の素顔を見ようとしてこなかった、また報道し
てこなかったことの責任も問われなければならない。

いびつな共和国体制の批判の大合唱に乗るのはたやすいが、今はあえて、その直接性
から身を引き離す知性が必要ではないのか?それを育てた歴史的背景を探れば、見え
てくるのは冷戦であり、さらには南北分断をもたらす一因となった日本の植民地支配
である。またそこでは強制連行と言う拉致が今回には比べられない規模で行われた。
このことへの想像力を、今回の拉致問題が奪い去ってしまうとしたらそれこそ一番悲
しい事ではないか。

歴史は時として想像を絶するくらいに酷い。いまメディアによってその酷さが思い入
れのできる悲劇として演出され、被害者の一挙手一投足がタレント並みに報道されて
いる。被害者本人でさえが発言をはばかられるような、「公式発言」に合わせねばな
らないような事態がまかり通っている。週刊「金曜日」のインタビュウは、「北の片
棒を担ぐ」物として指弾された。が、考えてもみよ。情報を伝えてこそのメディアで
ある。その判断は各々がすれば良い。
いま必要なのは今回の悲劇をを生み出した歴史へと企投する態度であり、強制連行の
痛みにまで溯る想像力である。「朝露」がそう教えてくれているように思えてならな
い。

アーニー・ディフランコ続き 2002年11月4日

今、レイバー・フェスタが終わった。
短い演奏だったが、お茶の水に続いてのフルバンドで、楽しくやれた。客席もかなり
盛り上がってくれたし、、、
何より嬉しかったのは、アメリカから来たビデオアクティビストに、アーニーのアメ
リカでの評価を聞けた事。その人はバリバリの活動家なので、さっ引いて受け取らな
ければならないんだろうけど、「みなさんがたにとってアーニーの音楽はどんなふう
に受け取られてますか?」という質問をした時の、破顔一色、「オー!アーニー!」
と言った時の彼の嬉しそうな顔!「Very very supportive 」それから彼はアーニー
を褒めちぎりぼくに「サンフランシスコで一緒にライブをやらないか」だって!
ほ、ほ、ほんまかいな〜?おっさん、安請け合いなのはフィリピン人だけにしといてく
れ〜

レイバーフェスタ関係者各位有難うございました。

週刊金曜日にCD評を載せました。
字数の関係で入りきれなかった分を含む「完全版」です。
本当に本当にこのアルバムはお勧めです!!


アーニー・ディフランコ
「ソーマッチ シャウティング ソーマッチ ラフター」(VICP-62032-3)

ブッシュは大統領じゃない、、、 2002年11月1日

 アーニーはボブ・ディランを超えたのではないか?−本稿を起こすにあたって過去
の音源を改めて聞き直しほんとにそう思った。彼女は89年のデビュー以来ほぼ毎年、
一貫して自前のインディーズレーベルから、エスタブリッシュメントを揺るがす作品
を出し続けてきた。が、彼女の魅力は「過激さ」ばかりに有るのではない。確かに坊
主頭で、生ギターを機関銃のように打ならして登場した頃の彼女の売りは「怒り」で
あった。事実その怒りは多くのフェミニストたちによって支持され、彼女のインディー
ズレーベルが立ち上がる力となった。

しかし一作毎に自らのスタイルを壊しながら進んでゆく彼女は 96年の「ダイレイト」
01年の「レベリング・レコニング」の二作で、飛躍的な成長を果たす。長いツアーを
経て息の合ってきたバンドに、かつては彼女自身のパーカッシブなギターが担ってい
たリズムを任せ、ギターは、弦の生鳴りを活かした和音の森の中を自在に探るように
なった。ジャズ的になったとも評されたが、むしろ彼女の内面を辿ろうとする音楽言
語の深まり方がそのアプローチを必要としたのである。彼女はジェンダーに傷付きな
がらも、それでも人を愛そうとする痛みをより切実に歌うようになった。その一方で、
マスメディアや体制が垂れ流すプロパガンダへの怒りはいささかも衰えていない。む
しろそれは静かに語られるようになって一層凄みを増してきたように思われる。その
両方を支えてきたのは、それでもこの世界をもっとましな場所にしようとする愛であ
る。その愛こそ、彼女が称揚して止まないウディ・ガスリーやピート・シーガー、
(そして無名のユタ・フィリップス)達からその卓抜な比喩とユーモアのセンスと共
に、アーニーが受け継いだアメリカの遺産である。言い続けてきたことだが、彼女こ
そアメリカン・フォークの最前線である。ウディ・ガスリーを乗せた「栄光への旅路
( Bound For Glory)(デビッド・キャラダイン扮するウディが、ギター一本で貨物
列車に飛び乗ってアメリカ中を歌って歩くという映画)」号は、今、アーニーを乗せ
て走っている。

 さて、今回のライブ盤である。息を飲むしかなかった。「9・11」をテーマにし
た新曲(というよりも詩と音のコラボレーション)「セルフ・エヴィデント」には電
気ショックが走った。人の命のはかなさをさりげなく語り出しながら、情景は崩れ落
ちるビルの廊下となり、この語りが9/11を歌ったものであることが暗示される。アナ
ウンサーは「信じられない!」と絶叫し、「報復を、終わることのない報復を」とい
う叫びが彼女にはどっかの高校のチンピラが唱える啖呵に聞こえる。ニューヨークで
はバーの至る所で辛うじて難を逃れた人々が語り出し、犠牲者達は酒の肴になってゆ
く。アーニーはそこで、「もし乾杯をするのであれば、パレスチナ、アフガニスタン、
イラクの人に対してじゃないの?」と立ち上がって叫ぶ。そこに聴衆の大喝采。
それに力を得たかのように彼女は「自明なことよ」と事実を数え上げはじめる。「1、
ブッシュは大統領じゃない。2、アメリカには本当の民主主義は無い、3、マスコミ
は私達をバカにしていない」もちろん三つ目は強烈な皮肉であろう。ここで聴衆の反
応は沸騰する、こんな「まともな」主張がアメリカで堂々となされ、それがこれだけ
のリスナーに支持されている。これだけのためにこのアルバムは聞かれても良いので
は無いか。

今作は渾身の二枚組(とことんこの人は手を抜かない)で、北米各地のライブを編集。
ホーンセクションもキーボードも自在さをまし、カラフルで奥行きの有るステージを
作り上げている。冒頭の「スワンダイブ」、三曲目の「グレイ」それから銃規制をテー
マにした「To The Teeth 」などが素晴らしい。また、「ダイレイト」「レベリング」
や「You had time 」で聞かれる切ない切ない愛への思いは胸に迫る。また、各所に
ライブならではのマジックが顔を出し、「持って行かれる」瞬間がある。
が、聞いていてしかし今回の主役はひょっとしたら聴衆の「ソーマッチ シャウティ
ング ソーマッチ ラフター」ではなかろうか。と思った。アーニーのしなやかで過
激で率直な歌の一節一節に共感の叫びを上げるリスナー達と彼女が作り上げてきた真っ
当な空間がきらきらと輝いている。多分02年の最高作。

iMac昇天および拉致問題について 2002年9月23日

いや〜突然のiMac(初代型)の昇天。修理を依頼したら、「五万円くらいかかって
10日から2週間ほどみていただければ、、」との返事。万事休す。
とにかくこれから音楽用シーケンスソフトを動かすことに絞ってどうにか後継の
iMac を買ってきて、その日の内に旧型を解体してハードディスクを取り出し、情報
をコンバートしてもらってきました。いやはや、、、

さて、21日は結局中止の告知を出したものの、直前に電話があり、生田のみで韓国
の仲秋まつり参加してきました。屋台はすべて美味。楽しかったです。

さてそのお祭りも例の拉致問題の影響を受けざるを得ませんでした。サムルノリの演
奏で、外を練り歩く予定だったものを、「朝鮮的なもの」に敏感になっている世間に
配慮して中止。演奏自体が素晴らしいものだっただけに残念です。

じつは僕もライブのMCで拉致問題に触れました。僕も日本人の一人として今回の酷い
結果にショックを受け、怒りを禁じ得ません。家族の悲しみは想像するに余りありま
す。拉致に対してかつての日本による強制連行を持ち出すのは正当化の根拠には成り
得ないと思います。「朝露」を歌う枕としてそんな話をしました。そして歴史の不条
理の前に立たされたものの歌として「朝露」を歌いました。

リベラルであると思われているK塾の講師室でも、「攻めて仕舞え!」「賠償なんて
もってのほか」などという怒りの声を耳にします。
「実は死んでいた」と発表されたあとの家族の記者会見を見ているとほんとうに酷さ
に腹が立ちます。しかし、あえて言わせて下さい。
同じように家族を殺されたり行方不明にされたおそらく何十万という家族がいたこと
を。我々は目の前にいる彼等の悲しみ、憤りに共感することができます。それはとて
も自然なこと。なら、ほんの50年前この国が朝鮮半島や中国でやった人さらいもま
た、同じような家族の悲しみをつくり出したことを想像できるはずです。

北朝鮮指導部の拉致の犯罪性を薄めようとか、正当化しようと思っているのではもち
ろんありません。きちんと糾弾し責任を追求すべきことは言うまでもありません。
(事態を放置し、北朝鮮との交渉のカードとして温存してきたかの節がある外務省、
政府の責任もまた、重いと言わざるをません。)

北朝鮮指導部が行った犯罪によって、本来我々が持つべきであった強制連行の痛みに
対する想像力が麻痺させられているのがとても残念です。

朝鮮学校の生徒さん達に対する暴言や、2ちゃんねるなどでの差別的な書き込みが急
増しているという話を聞くと、この国の文化の不毛に寒々しさを覚えます。
今必要なのは「歴史」を見つめる勇気ではないでしょうか?

ブルース・スプリングスティーン
「ザ・ライジング」評


「アメリカの良心」の限界 2002年9月13日

 9・11以降の状況に対してブルース・スプリングスティーンがどう答えるのか、
固唾を飲んで見守っていたのはぼくだけではあるまい。「Born In The USA 」や「フィ
ラデルフィア」で、アメリカの矛盾、不条理を果敢に歌って来た彼が9・11「テロ」
と報復戦争という状況をどう歌うのか非常に興味があった。しかも新作「ザ・ライジ
ング」の曲のほとんどは9/11以降に書かれたものだと言う。

 彼は元々ボブ・ディランの影響を強く受け、イメージの炸裂する言葉の矢玉を連発
するスタイルでデビューした。その後彼のスタイルは、平明でシンプルな言葉で、ま
るで優れた映画作家のように、庶民の視点から一人称で時代の物語を紡ぎ出すものへ
と変わっていった。スリーマイル原発の事故を描いた「ルーレット」や、レーガン時
代の失業者の歌「The River」、それからなんといっても彼の最高作「ネブラスカ」
などの作品はそのようにして生まれた。むしろ彼はディランよりも、その師ウディ・
ガスリーのスタイルに近づいていった。

 新作「ザ・ライジング」に於いても、一人称で物語を紡ぐ彼の姿勢は変わらない。
9月11日の犠牲者達の中には、消防士など、ボスと同郷のニュージャージー出身者
が多数いたと言われている。M-2「Into The Fire 」ではまさに火の中に向って消え
て行った消防士に「あなたの力が私達を満たしますように、あなたの信念が私達を満
たしますように」と彼は呼び掛ける。またM-4「Nothing Man」では、消火活動で一人
だけ生き残り英雄となった消防士が「俺は取るに足らぬ男に過ぎない」と独白する。
彼はそのような人々を愛国的な英雄に祭り上げるのではなく、地域の住民の一人とし
て造型し、悼む。このアルバムの中でもっとも感動的な作品M-14「Paradise」では、
彼は死に往くものの視点から、生と死をわけるはざまを歌う。そこには憎しみや報復
と言った「テロ」後のアメリカを席巻した感情とは無縁な、静ひつな達観が漂ってい
る。

 おそらくこのアルバムでもっとも注目を集めるであろう作品は力作M-7「World
Apart」。今までサンプリングなどとは無縁であったボスが、パキスタンの宗教音楽
カッワーリを挿入して、「世界の分断を超えて」イスラム教徒との和解を呼び掛ける。
ブッシュ流の大言壮語を戒めて、「真実なんて捨て去るんだ。むしろそれは肌と肌を
合わせ、鼓動が一つになるキスの中にあるんだ」というフレーズは心にしみる。次
のM-8「Let's Be Friends 」でも「たくさんの壁をぶちこわして、一つ一つ取り除こ
う」と彼は率直に歌う。

 タイトル曲のM-13「The Rising 」やアルバム最後の「My city of Ruins」では、
廃虚からの立ち上がりが歌われる。つまりこの新作は、死者達を悼み、和解を呼び掛
け、明日へ一歩を踏み出そうと呼び掛ける言わば「癒し」のアルバムである。
 彼のこの9・11を真っ向から見据えた表現姿勢には心から敬意を表さざるをえな
い。ボスはおそらく最良のアメリカ人である。友だちにするならエミネムでもアイス
キューブでもなくこの人を選びたい。彼は報復を口にすることなく和解と前進を呼び
掛ける人である。ではこのアルバムは成功か?と聞かれれば答えは残念ながら否であ
る。どの曲の狙いも明確であり共感できるものには違いない。ところが、その作品の
意図を「説明」できてしまうのである。傑作アルバム「ネブラスカ」では、不条理は
不条理としてそのまま投げ出され、生々しい「アメリカ」の傷口がさらけだされてい
た。リスナーはその物語の断片の前で立ちすくすしかなかった。

 言うまでもなく、一人称の語り口が成立するためには、庶民としての地を這う感覚
だけではなく、語っているその立場を客観視できるメタレベルの視点が必要である。
彼にはブッシュの「正義」に惑わされず、イスラム教徒との共存をはかろうとする知
性がある。しかし、すっぽりと抜け落ちているのは加害者としてのアメリカに対する
視点である。悼まれるのは消防士達ではあっても、誤爆で殺された(それに数倍する)
アフガンの住民ではない。あえて「アメリカの庶民」代表足らんとしている彼にそれ
を求めるのは酷であろうか。その視点の欠如が作品の切れ味を奪っていると見るのは
うがちすぎというものだろうか。

 サウンド的にはこのアルバムで、全盛期の彼を支えたEストリートバンドが二十年
ぶりに復帰したことが話題となった。しかしこの点はM-3「Waiting On A Sunny Day」
が自分達のサウンドのあまり上等とは言えないパロディになっている点が御愛嬌と言
う点をのぞけば別に魅力とはなっていない。現在のアメリカにおいてこの作品の「癒
し」は必要なものであったと切に思う。また現実を見据えた表現者としてのボスの姿
勢は実に鮮やかである。だが、73年以来の彼のリスナーとして敢えて言わねばなら
ない。「ボス復活せず」と。

近況報告−あるいはレナード高円寺 2002年9月1日

二足のわらじの片っぽう−予備校教師つう仕事の関係で「夏休み」という言葉を無く
してはや○○年、、、忙しかった夏も終わり、たまっていた音楽への情熱を忙しくテー
プレコーダーや譜面にぶつけています。ちょっと嬉しかったのは、永年温めて来たレ
ナード・コーエン先生の「Chelsea Hotel No2」(チェルシーホテル)の日本語版が
完成したこと。これはコーエン先生が故ジャニス・ジョップリンとの関係を回想して
作った名曲中の名曲なんだけど、なぜだか最初から日本語で歌いたかった。ふ、ふ、
ふ、人の曲なのでHPにアップしたりできないし、集会乗りのライブ等では披露できま
しェん。みなさま密かに期待を膨らましていてください。ぼくは中川敬氏がディラン
の「Shelter From The Storm」を日本語カバーしているのに腰が抜けるくらい驚き目
を覚まさせられたけど、まぁ、それくらいの出来は期待してください(ソウルフラワー
のファンの方ごめんちゃい)。これで、レナード・コーエンの持ち歌ができたので、
東京ボブ・ディランに倣って、レナード高円寺を(時として)名乗らせて頂きます。
そんな名前でライブハウス等出没するかもしれません。よろしく!
他にたまっていた来るべきラブソング集のためのプリプロ作りなどなど精力的に働い
ておリます。アレンジャー田村氏のお陰で、従来になかった水準のモノがお届けでき
そうです。
25日の「多文化共生祭」多数の御参加ありがとうございました。特に仙台の教え子
達が十人以上来てくれたのにはちょっと感動。楽しく盛り上がれましたね!!
9月7日のキャンプライブお申し込み有り難うございます。これは掛け値なしに楽し
いイベントなのでお早めに。

P.S.
東京電力ぜったい許さへんど!トップの交代ぐらいで済むと思うなよ!

一発レコーディングの行方 2002年8月18日

さてさて前回予告した、ラヒン・カユマンギと、寿のなびぃとの曲作り、レコーディ
ングはどうなったか?予想した通り「どうにかなった」のである。この一発制作は、
今月10日に、新横浜のスペース・オルタでおこなわれた。
なびぃがメモ程度に走り書きした「みんな愛を知るために生きている。ひと粒の涙を
広い海に返そう」という歌詞をタガログ語、セブ語(ミンダナオで使われている)、
なんと飛び入り参加の日系ブラジル人のおねえさんによるポルトガル語、日本語、英
語にして、タガログ等の部分の歌詞をアリソンが、日本語と英語の部分をぼくが担当
して、ラヒンの得意なエスニックな楽器をどんどん追加してゆくことで、かなり面白
いものに仕上がっていると思う。「と思う」と書いたのは、どうしても翌日の朝が早
く、生田は終電ぎりぎりで戻らなければならなかったので、全てを見届けたわけでは
無いからである。その後、朝の三時までかかって録音を終わらせたらしい。報告によ
ると、みんなナチュラル・ハイな状態になって最後はすごかったらしい。
生田もなびぃもラヒンもこんなワークショップ形式の音楽制作、録音は初めての経験
だった。行きつ戻りつ失敗もしつつ、みんなのエネルギーが一つになってできた一種
の奇蹟と言って良いでしょう。場所を提供しエンジニアも勤められた佐藤マオキさん
に大、大感謝。参加してくれたみんなに感謝。音楽の場が最後となったYちゃん。あ
りがと!
自分の録音が終わった後もみんなのエネルギーを引き出して全体をリードしつづけた
なびぃ、、、やっぱあんたはすごいよ!

なびぃ 2002年7月31日

報告が遅くなって申し訳ありません。先日のラヒン・カユマンギのライブは素晴らし
い内容だった。故郷ミンダナオの実質上の内戦をみんなに知らせたい。そのためにラ
イブを成功させたいという彼らの思いが、一丸となってステージに現れ、過去最高の
ライブを見せてくれた。どんなメジャーのバンドにも負けない本当の「総立ち」を作
り上げていた。そこになびぃが居た。寿のなびぃはひとりのお客さんとしてお金を払っ
て心から楽しんでいた。
 打ち上げの席で、彼女は感動的な話を披露してくれた。ピースボートに乗った時、
イスラエル人とパレスチナ人がそれぞれスピーカーとして乗っていた。当初は顔も見
合わせようとしなかった二人は、喧嘩腰で討論したり、相手の話を聞いたりする内に、
平和について考えはじめた。そして、なんと、船を降りる直前には、ふたりで、曲を
創り、歌ったのだと言う。おっと、話はそこまでじゃない。帰国後、ふたりは敵愾心
で固まったそれぞれの故郷で、困難な「分かりあい」のための努力を続けていると言
う。その二人を、なんとなびぃは沖縄に呼んでしまったのだ!再会したかれらと寿と
のコンサートがどれほど素晴らしかったかは容易に想像できるよね。なびぃは、パレ
スチナや沖縄やミンダナオの人々を繋ぐために、みんなが心を一つにできる大きなラ
イブを企画したいと語り、アカペラで八重山民謡「みるくゆー」を歌ってくれた。そ
れはそれは「大きなおおきな」歌声だった。聞いてゆく心がほとびてゆくようだった。
こんなにすごい表現者が友だちであることを嬉しいと言う以上に、恐ろしいとさえ感
じたね。
 さて、8月某日に、そのナビィとラヒンのメンバーと一緒に秘密の企画を緊急に建
てた。なーんにも準備しないで集まって、日本語、タガログ語、ウチナー口、英語で、
シンプルな歌詞を歌いあって、平和のための歌を創っちゃおうというのだ。もちろん
発想したのはなびぃ。結果は?さーてこけるかもしれないし、「満月のゆうべ」をし
のぐ名曲が誕生するかもしれない。もちろん結果は保証できないけれど、結果の分かっ
たものは面白く無い、、、さてさて吉と出ますか、凶とでますか??

マッド・アマノ氏 2002年7月12日

CDの制作のニュースを聞いて思いがけない人から連絡を頂いた。かつてFOCUSの裏表
紙を飾っていたパロディストのマッド・アマノさんである。生田はもともとアマノ氏
の作品の諧謔と風刺が大好きであったので、さっそくお会いした。マッド氏からする
と、S0-S0は「数少ない諧謔と風刺のバンド」なのだそうだ。嬉しいお言葉である。
マッド氏は予想通り、知的で実に温和な「過激な」芸術家であった。マッド氏の作品
の底には熱い「愛」があって、それが彼の諧謔を支えているのだと言うことがよーく
分かった。実に実にいろんな話をしたが、そのなかで、マッド氏が取り組んでおられ
る国民総背番号制反対の運動への強力を依頼された。さっそく制作にとりかかり、昨
夜というか明け方ほぼ完成。恭介とわいわいやっているうちに当初の「軽快なロック
ンロール」の予定が、できてみたらS0-S0初のダブ作品となっていた。七月二十日の
集会でお披露目できそうである。音も試聴できるように努力します。が、取りあえず
歌詞のみ。「諧謔と風刺」の味は出ているでしょうか??
それからこの唄にはまだ題名がありません。よかったら良いアイデア募集します。よ
ろしく!!


総背番号制の唄(仮)

俺はもともと忘れやすい
一体自分が誰なのか
雲を見つめて考えた
そしたらそいつがやって来て
「教えてあげましょ。入力一発。ハ〜イ、ビンゴ!」

来歴、病歴、不良歴
みんなファイルにぶちこんで
そいつはなんでも知っている
借金の額も痔の後も
「七月二十日の怪しい集会、あ〜んた行ったでしょ?」

背中に打たれた番号は
一生あなたの証しです
道に倒れても溺れても
地獄の門までついて来て
閻魔大王パソコン叩いて「ハ〜イ、こっち」

管理されるのは気持ちがいい
ハミ出さないのは気持ちが良い
壁のこちらのぬるま湯で
監視しあうのは気持ちがいい
ハミ出してる人引きずり降ろすのチョ〜快感!

間奏

この唄の歌詞も記録され
俺のファイルに書き込まれ
11の桁にいろどられ
俺の墓碑名かざります
「一生売れないサヨクのシンガー ハ〜イ上がり!」

新作製作の続報 2002年6月17日

デザイナーとの最終打ち合わせや、ミックスの修正などに追われていると、さすがに
久々にアルバムを出すんだという気分になってくる。
誰かにライナーをお願いしようかとも考えたが、それはフルアルバムにとっておいて
今回は(も)自分で口上を述べることにした。テーマは「怒る」ということについて。
読んでみて下さい。CDは週明けにはパッケージできるかと言うところまで来ました。
御予約を頂いたみなさんには遅れをお詫び申し上げます。その代わりと言っては何な
んですが、ちょっとヤバくて発表できそうにない曲を初回プレスのみボーナストラッ
クのボーナスとしてつけることにしました。特典ではなく厄災かもしれませんが、ど
うか楽しみにしてくださいませ。

 口上−ちゃんと怒ること、或いは中年パンク宣言

 実は「やっぱラブソングはSOSOだわ〜」と言われるような内容のアルバムを密かに
準備中だった。ところが有事法や、個人情報保護法(一回消えたからといってゆめゆ
め安心召さるな)やら世の中急にキナ臭くなってきた。怒りが込み上げてきた。
学校等では怒ることを必ずしも善しとしない。「○○君怒らないで冷静に話し合いま
しょう」などと言われる。この社会では大人はちゃんと怒ると言うことをキッズに教
えていないと思う。諦めてあとで舌を出すことや、薄ら笑いをしてごまかすことでは
なく、「切れる」ことではなく、ちゃんと怒っていることを表現したいと思った。
 たまたま河合塾コスモの「ロック・ゼミ」ではパンクについて語っているところだっ
た。生田自身はパンク全盛期にはスプリングスティーンやハードレイン、ディザイア
のころのディランにはまっていたのでパンクの洗礼は受けなかった。改めてクラッシュ
などの音を聞いてとても愛おしく思えた。ちゃんと怒っている音楽がそこにあった。
「考えてみれば俺らの音ってむしろパンクだったのかもな」と元バリバリのパンク恭
介にふと洩らした。恭介は目を剥いて驚いて叫んだ「え!今までそう思ってなかった
んすか?」
                                生田 卍

新作を製作中 2002年5月13日

いよいよ、恭介と新作の製作−録音に入った。
恭介の新曲はすばらしく、多分、皆さんに広く愛される曲になるという予感がする。
生田も久々のラブソングを持ち込んでいる。ところが、である。有事法、個人情報保
護法など、事態がまたまたきな臭くなってきた。そこで、とりいそぎ、26日に発表
できるように社会的な内容の曲だけを先にまとめて、手売りプラスα枚だけ緊急に制
作することとした(あ〜またまた集会御用達歌手って言われるんだろうなぁ)。おも
しろいもので、製作に関わると感性が音楽に向かう状態が続くので時として新曲が浮
かんでくる。仙台のホテルでスケッチして、昨日から恭介と煮詰めた(まだ録音には
いたらないが)出来たてのホヤホヤの歌詞を読んで下さい。
すーごく早く皆様に聞いてほしい。かつてジョン・レノンが、インスタント・カーマ
をミュージシャンを集めて一日でつくったひそみに習って、、、、


    Bankers' Paradise

有本のおばあちゃん 笑うてはったけど 一文無しで出ていかはった
じいちゃんがシベリアで死にはったあと がむしゃらに働いて建てた家
銀行から借りてくれと言うてきたらしいで 元本は保証するさかいにと
言うたいわへんの押しくらの挙げ句 銀行は一文も負けへんかった

  パラダイス ワルツに浮かれ パラダイス 飲んだくれて踊り
  倒れたあとの どぶさらい 誰もせえへん パラダイス、、、、

有本のおばあちゃんおん出した銀行の 頭取は退職金満額もろうて
そのあとに役人が天下り 税金で息を吹き返す
万骨枯れた焼け野が原に 今日も無責任の風が吹く
はり紙の張られた家に刻まれた思いでも涙ももろともに

  パラダイス ワルツに浮かれ パラダイス 飲んだくれて踊り
  倒れたあとの どぶさらい 誰もせえへん パラダイス、、、、

トラックの荷台から頭を下げて ほんまに御世話になりました
おばあちゃんいつもよりちぢこまはって それでも笑うて行きはった

  パラダイス ワルツに浮かれ パラダイス 飲んだくれて踊り
  倒れたあとの どぶさらい 誰もせえへん パラダイス、、、、

レナード・コーエン 2002年4月17日

 みなさんはレナード・コーエンという歌手を御存じだろうか?今年「テン・ニュー・
ソングス」というあっさりした題名の新譜を出した68歳のじいさんである。
 考えるほどに圧倒的な存在感である。その作品は多くの人にカバーされながら、ま
たエルトン・ジョンやビリ−・ジョエル、U2のボーノと言った大物からトリビュート
盤を(2枚も)捧げられながら、彼に似たスタイルの歌手は一人もいない。本人が
「回転数を半分にした」という独特の低音でぼそぼそと語られる不思議な歌詞。かれ
は34年カナダ生まれのユダヤ人で、66年には世界的ベストセラー小説「嘆きの壁」
を発表。エーゲ海の孤島での生活から世に問うた詩集の中の作品「スザンヌ」をジュ
ディ・コリンズが取り上げて68年には自らもレコードデビュー。その後活動拠点を
ニューヨークに移し、前述のジュディ・コリンズ、パティ・スミス、ジョニ・ミッチェ
ル、といったミュージシャンを始め、レベッカ・デモーネイらの女優らと次々と浮き
名を流し、なかでもジャニス・ジョップリンとの情事は彼女の死後名曲「チェルシー・
ホテル」(’74)として残った。彼の作品を一言で言えば深遠。しかしそれらは決
して難解なのではない。むしろ時として人なっつこくポップでさえある。本来ユダヤ
教の神秘思想の影響下に創作を始めたらしいが、70年代より禅に傾倒し99年つい
に念願の得度を果たしたという(新譜の写真はそう言えば坊主あたまである)。そう
だ、彼の作品は禅の公案に近いのだ。歌詞の中に箴言やアフォリズムがちりばめられ、
我々が普段直視しようとしない闇を照らす。煩悩を照らす。公案は永遠の問いとして
その答えは「生きられる」ほかはない。彼はよくYouという語りかけをするが、彼の
作品の中では多くの場合Youは(しばしば彼が愛した女性達を意味しながらも)神と
同義であり(「ハレルヤ」「誰が火によって」(’84)など)、凄絶なまでの孤独
の中で、彼は皮肉や冒涜に近い言葉さえ投げかける。レナードは自分に対しても皮肉
である。煩悩を備えそれに突き動かされながら、なおかつ正義や神を求める自分を突
き放しつつ、ユーモラスに描く。言うまでもないが我々はそこでレナードという鏡に
映った自分の姿を見る。それは可笑しく、悲しくもまた愛おしい、、、
 しかし彼は決して高みから悟ったようには語らない。むしろ作品を包んでいるのは
けだるさに似た色気であり、秘めた色事の思い出に浸るような生々しさである。それ
が僧として得度を果たし齢70を目前にした今作からも変わらずに立ち上っているの
には目眩がするほどだった。「今朝君の夢を見た/君の動きはとても敏捷だった〜君
がここにいてくれたらと思う〜ぼくの秘密の生の中では/ぼくたちはまだセックスを
してるんだ」という歌いだしにドキリとする(「イン・マイ・シークレット・ライフ
」)。今作はプロデュースを彼はシャロン・ロビンソンというR&Bのアーチストに委
ねている(彼女は84年の「ビバリーヒルズコップ」のサウンドトラックでグラミー
を授賞した実力派)。シャロンは今回は最小限の打ち込みと彼女自身のエレピでミニ
マムなバックのサウンドを創っているばかりでなく、ほとんどの曲で、レナードとの
歌の絡みも聞かせている。それが、まるで色事を連想させるかの様につかず離れず、、
、見事である。彼のアフォリズムも健在である。「禁酒しようとした/だが酔っぱら
わなければできなかった/ダイヤモンドを質に入れた/でもだからといってクズにな
るわけじゃない(ザット・ドント・メイク・イット.ジャンク)」「因果律の背後に
身を隠すな/臆病者の言い訳をするな/おまえは意味が分からず途方にくれている/
解読の記号が壊れ/十字架が失われてしまったから(アレグザンドラ・リービング)」
。というよりもほとんどの詩がぱっくりと口をあけた闇のように問いをはらみ我々を
包む。もはや生きられることでしか解けない問いの前に我々は立たされる。
 いやしくも禅僧であるからには彼は独り行い澄まし、浄土に住まう訳には行かない。
このアルバムの中で繰り返し名指される「ブギーストリート」という濁世に牛を連れ
て戻って行かなくてはならない。同じくブギ−ストリートを住処にする我々にとって
彼は隣人である。とてつもなく大きな煩悩に灼かれた隣人である。ところがその煩悩
を見つめ続けた者だけが至りつける温かい「闇」は途方もなく優しいのである。
、、かういふ年寄りにわたしはなりたい、、、

かくれの裔 2002年3月2日

 長崎を山ひとつ超えた大村藩領の半農半漁の小字が父祖の地である。貧農が土地を
手放し、臨時工として都市のスラムに流入するという典型的な都市プロレタリアート
の子として父は生まれた。「近代」が姿を現す時に至る所で繰り返され、また現在で
もその周縁で見られるありふれたドラマの一齣として。そのドラマの続編として彼は、
鉄砲を持たされ、日の丸と万歳で送りこまれた大陸で敗戦を迎えた。復員して戻った
故郷の家は原爆で消えていた。彼の兄も姉も、また母も。
 戦後、広島ほど人口の移動のなかった長崎では、身内に原爆の死者のひとり二人い
るのはむしろ当たり前で、大人達が集まって話し込むと、大抵しまいには「あん時」
の話になった。家の梁の下敷きになって生きたまま焼かれた人の話や、飛んできた冷
蔵庫の陰で気を失っていた話や、ちんちん電車が横倒しになってシューシュー燻って
いた話などなど、、、子供心に「あん時」は、灼熱の余りに温度を失い、轟音のため
に音の消え去った、時間の凍りついた世界として焼き付いた。
 父ともう一人の姉を残して皆死んでいたせいか、先祖、係累が話題にのぼることは
あまりなかった。父の曾祖父ともなれば尚更である。ところが父は晩年になってこの
曾祖父源兵衛とひょっこり出会うこととなった。源兵衛の「転び証文」と対面したの
である。
 西暦に直せば1853年。源兵衛は隠れキリシタンの信仰を棄て「転ん」だ。時ま
さにペリーが来航し幕末の激変の始まりとなるその年のことである。その18年後に
新政府がキリスト教禁制を解くことなど知る由もなく。
 ザビエルという人は憑かれたように布教をした。戦国末期のこの国のキリシタンの
数は70万人。マスメディアも無く、人口が現在の五分の一の時代にである。秀吉、
家康と引き継がれた禁教政策を前に、少数の者は信仰と死を選び、大多数の者は信仰
を捨て「転ん」だ。長崎を教会領として寄進していた大村藩も、むしろ他藩以上に厳
しい取り締まりに乗り出した。だが、転んだ人々の一部は隠れキリシタンとして密か
に信仰を守った。「七代経ったらさんたまりあの船に乗ってパードレ様のまた来なさ
るげな」という殉教者の預言を拠り所に。彼らは表面上は寺の檀家として仏壇を持ち、
裏に隠した納戸神(その多くは聖母子像)を拝み、定期的に会合し、オラショと呼ば
れるラテン語混じりの祈祷文を唱え、幼児に洗礼を施し、葬儀を執り行った。彼らの
ほとんどは明治以降にカトリックに吸収されていったが、現在でも平戸の生月島を中
心にその独自の信仰を守る人々がいる。
 源兵衛もおそらく同じような信心を行っていたのではなかろうか。納戸神を祀り、
オラショを唱え、、、証文によれば彼は大村藩の藩宗、日蓮宗に帰依すると宣誓して
いる。だが、はたして源は本当に「転ん」だのであろうか。その後の人生の節々にオ
ラシ?を唱えることはなかったろうか。先祖達がそうしたように転んだと見せかけつ
つ信仰は守れると思わなかったろうか。遠藤周作がフェレイラに託して描いたような
葛藤を彼もまた味わったのではなかったろうか。証文を前にして、父もまた源の心中
を慮ったに違いない。晩年を地方俳人として生きた父は
 末枯れて 源は転びの日陰墓     /  彼岸花 かくれの裔として手折る
などの句を残している。
 隠れの末裔としてではなく、正しくプロレタリアートの息子として、父は復員後の
人生を社会主義の実現のために賭けた。レッドパージで職場を逐われ、手にした唯一
の技術、ガリ版切りで自活する他はなく、筆者が生まれた時には零細印刷屋のおやじ
であった。金策と談合に走り回る姿は世間の中小企業のおやじと変わりはなく、同業
者が推す自民党市議の応援まで買って出ていた。彼もまた「転ん」だのであろうか。
最晩年、幸か不幸か一病を得て引退し、俳句に没頭してそれなりの評価を得るように
なった。地方紙の文化欄で父の名を見つけた遠い縁者とぽつぽつ連絡を取るようにな
り、源兵衛のことがわかった。
 かくれの裔ー父は同じく転んだものとして源兵衛と向き合ったのだろうか。それと
も異質の思想を持ち続けたまつろわぬ者の末裔として源を見たのか。
 父がまだ俳句に没頭する以前、印刷屋が会社組織となり、その役員になっていたこ
ろ、彼の息子は彼の望んでいた道を外れ、ある闘争で逮捕、勾留されていた。一度だ
け面会に来た父は「軍事的に敗北しても精神的には敗北するな」と言い残して去った。
おそらく警察から「説得」を期待され、本人も喉まで出かかっていた「ゲロッて早う
出てこい」という言葉を不器用に呑み込んだまま、、
本当にこの時程父の背中が弱々しく見えたことは無かった。けれど、この時程、彼と
の繋がりを感じたことも無かった。敗れた者の系譜、、、、
 この敗北の連鎖の果てに源兵衛が連なっているのかもしれない。かくれの裔とは敗
れ続けて来た者の謂いなのかもしれない。そうであれば筆者もまた紛れもなくかくれ
の裔である。
 恥ずかしいかな、筆者はこの父祖の地を訪れたことがなく、証文の実物も目にした
ことがない。聞くところによると、源兵衛らが転んだ時の話がまだ古老によって伝承
されているとのことである。彼らの目の黒いうちに、どうしても訪れたいと思ってい
る。

「悪の枢軸」? 2002年2月12日

 あのしたり顔の男が、「悪の枢軸」などと言う。テロを支援し、大量破壊兵器を売
りまくる、、、、ん? おいおい、ブッシュ君、それは誰のことかね?タリバン政権
を育て、フセイン政権を育て、イスラエルに武器を提供し、核実験は止めず、あまつ
さえ京都議定書から脱退!やりたい放題!
 余りにも見事な文書をネットで見つけたので長いけれど、転載します。上野千鶴子
さんの文章です。
 あげた手をおろす

 昨年の同時多発テロ以来、なんともやりきれない思いが続いている。テロは許せない。何の関係もない民間人の命を奪ったのは卑劣だ。怒りがわく。そこまではよい。そしてこぶしを握りしめて手を挙げる・・・その手をどこにふりおろそうというのか?

 アメリカは挙げた手を、アフガニスタンにふりおろした。世界最大の軍事大国が、その軍事技術の粋を尽くして、長年にわたる戦乱で疲弊しきった貧しい小国をたたきのめした。ブッシュ大統領が決断したこの宣戦布告なき戦争、国際法にのっとらない他国への攻撃行動を、アメリカ議会はたったひとりの反対を除いて支持した。世論の圧倒的多数派も大統領の決断に賛意を示した。たったひとりの反対派は、バーバラ・リーという女性議員だった。女は平和主義者なのか? いや、彼女以外のすべての女性議員は賛成にまわったのだし、ブッシュの軍事戦略の影には、ライス長官という女性の参謀役がいる。国民の8割の支持のなかには、当然たくさんの女性が含まれる。

 小泉政権がただちにブッシュの支持を表明し、テロ特措法を性急に決めたとき、日本国民の賛否は、男性と女性とでは逆転した。女性のほうが武力の行使にためらいを示した。だから日本の女は平和主義者だと言えるだろうか? 半世紀前、女たちが翼賛の旗を振ったことをおぼえているわたしたちは、女だというだけで自動的に平和主義者だということにはならない、と知っている。

              *

 新聞の投稿欄に、女性のつぶやきが載っている。アメリカのアフガニスタン攻撃に批判的な感想をもらした彼女に、夫は声をあらげてこう言った、という。

「だからって、何もしないわけにはいかないだろう?」

 アメリカの男は、アメリカの女たちも、おなじように言う。アメリカのフェミニストもそういう。

「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」

 わたしはそれを聞くたびに思う。アメリカのフェミニストは、フェミニストである以前に、アメリカ主義者だ、と。彼女たちはいったい何をしているのだろうか? 声が聞こえてこない。そう思っていると、タリバーンが女性から職をとりあげ、教育を禁止し、ブルカを強制した性差別者だ、だから攻撃してもよい・・・という声がとどく。わたしのきもちわるさは募る。これがフェミニズム? 武器と暴力でおしつけられる「解放」って何だろう? フェミニズムとは、他者の救済ではなく自己解放、なによりも自己定義権のかくとくのことではなかっただろうか? 「これがあなたにとって解放よ」と、当事者以外のだれが、アフガニスタンの女に「教えてやる」ことができるだろう?

 理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。

「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」

 そう言えるのは強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。

 わたしは湾岸戦争のときにあるアメリカのフェミニストと、激しい議論をしたことを思い出す。湾岸戦争を批判したわたしに、彼女はこう言ったのだ。

「だったらあなたはフセインの蛮行をだまって見ていろ、というの?」

 そう。そのとおり。ヒロシマの人々は、アメリカの蛮行をされるがままに受け容れた。ニカラグァの人々もアメリカの侵攻を黙って耐えた。なぜなら・・・無力だったからだ。

 もしあなたが無力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する能力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその能力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。

 反撃の道が封じられているとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。

 わたしはフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重されることを求める思想が、フェミニズムだと、わたしは考えてきた。

 だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。

              *

 アフガニスタンでは「戦争」がまだ続いている。挙げた手を、いつ収めればよいか、事態の収拾の時期をブッシュはつかみかねている。最近の世論調査によれば、「ビンラディンを拘束するか殺すまで、空爆をつづけるべきだ」という意見に、アメリカの多数派が賛成したという。テロ対策、つまり「自衛」が、この正統性のない攻撃の大義名分だから、「敵」将の首級を挙げなければ、矛を収めることはできないのだ。

 しかもこの機に乗じて、「テロとの闘い」の名のもとに、イスラエル政府によるパレスティナへのあからさまな武力攻撃が始まった。ゲリラ的な攻撃や自爆テロに対する「報復」として民間人の住む街や施設が破壊され、犠牲者が出る。アメリカのアフガニスタン攻撃と同じ論理、同じやりくちである。そしてアメリカとおなじく、それをおししとどめる力はどこにもない。アメリカは「テロ対策」と称して、フィリピンにも軍隊を送り、軍事行動を開始した。「テロとの闘い」という名目さえあれば、アメリカの軍隊は世界中いたるところに主権を無視しても軍事行動をおこすことができる。「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」が、あからさまな暴力で支えられていることを、こんなに目に見えるようにしたのが、ポスト冷戦の効果なのだろうか。
 アフガニスタンの人々にしてみれば、犯人だという証拠もなくどこにいるか所在もあきらかでないビンラディンという、しかも外国人のために壊滅的な打撃を受けることになった。ピンポイントというが、爆撃は軍事施設だけを破壊するわけではない。その下にいる人間を殺傷し、民間人を犠牲にする。アフガニスタンで犠牲になった6万人といわれる人々は、いったい何のために死ななければならなかったのだろうか?

 空爆の恐怖を覚えている人々が日本にはいる。そのひとたちは、空爆下のアフガニスタンの人々に、半世紀前の自分のすがたを重ね合わせている。

「アフガンの空爆の報を目にしては沖縄戦を生きのびし母むせび泣く」

 東京大空襲では10万人の人々が死んだ。主として民間人だ。空爆は第2次世界大戦のときにドイツがはじめに考案し、ただちにイギリスが採用し、アメリカが追随した。しかも民間人を直撃する都市のじゅうたん爆撃だ。なぜこんな無法な攻撃方法が、戦争犯罪と見なされなかったのだろう? 非人道的攻撃と? だが、日本という国は、核兵器さえ非人道兵器と主張することのできない国だ。

 しかしただちに次のような問いが浮かぶ。合法な戦争というものはあるのだろうか。人道的な攻撃は? 戦争犯罪というからには、犯罪にならない戦争があるのだろうか? 戦争犯罪というかわりに、どうしてわたしたちは、戦争が犯罪だ、ということができないのだろう?

 日本人の一国平和主義とは言われたくない。女は本質的に平和主義者だとも信じない。もしわたしたちが今でもそしてこれからもフェミニストをなのりつづけるなら・・・憲法ナショナリズムにもジェンダー本質主義にもよらない非戦・非暴力の論理を構築することが、思想としてのフェミニズムに求められている。もしあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、わたしたちはDVすら解決することができないのではないだろうか。

文:上野千鶴子
[ 日本女性学会ニュース89号掲載予定 ]

嗚呼 キム・ミンギ 2002年2月2日

 労音の新年会で面白い人と出会った。societe contre l'etat (国家に抗する社会
という意味。フランス語のアクセントの記号が出なくてすいません。フランスの文化
人類学者がある先住民の社会をこう定義したそうです。)というジャズ+ラップとい
う、過激でアバンギャルドなバンドでドラマーとハングルのラップを担当しているS
君。かれはなぜか韓国にはまってしまって、労音にも韓国との美術交流プロデュース
をしているH氏の紹介で来ていた。新年会では特に韓国に縁のある曲を演奏したわけ
ではないが、なぜかライブの後で意気投合するものがあった。聞いてみると住んでい
るところが上高田、うちのすぐ近所である。S君は程なく来襲した。
 彼がストリートで演奏できるドラムセットを仕込んでニューヨークの街角で演奏し
た話に、僕がソウルの街角で五百人を集めた話で応えた。こうなれば、成りゆき上、
ソウルで一緒にストリートをやろうと言う話にならないわけがない。ならばぜひ、ナ
ヌムの家のおばあさん達が生きているうちにナヌムの家でもライブをやろうというこ
とになった。(近い将来、必ずやるつもりです。)
 S君に、ぼくはおそるおそる金敏基(キム・ミンギ)を聞かせた。70年代後半の
反独裁運動の中で、あの名曲「朝露」を作曲したひと。ソウルを追放され、作品は全
て発禁になり、彼のCDが発売されたのは93年になってからだった。彼の深い歌声、
シンプルで美しい、それでいて雄弁な楽曲。どれほど彼に鼓舞され刺激されたことか。
93年に出た彼の四枚のアルバムは今でも宝物だ。ただし、サウンドは必要最小限の
ことしかやっておらず、そのフォーキーな音作りは、ジャズのミュージシャンにはア
ピールしないかもしれない、、という懸念が実はあった。実際、オルタナな仲間に熱
烈に紹介してもあんまりピンとこないという反応をされたことがままあったからであ
る。「朝露」そして、金芝河(キム・ジハ)の詩に曲をつけた「金冠のイエス」、、、
、S君は目を真っ赤にして聞いてくれた。そして、CDと楽譜を是非にと奪うように借
りていった。
 改めてキム・ミンギを聞いて、彼の懐の深さ、表現力、魂に打たれた。レナード・
コーエンにも相通じる低音の深いボイス。そうして、ついぞキム・ミンギを持ち得な
かった日本のカウンターカルチャーを思った。
 今キム・ミンギは実は歌っていない。ソウルに二軒の芝居小屋を持つ演出家である。
ライブは頼まれても一切引き受けないらしい。大酒飲みと聞いている。李政美さんが
キム・ミンギの曲を彼女のCDに収録した際に彼に会いに行った時の話をきいた。印税
をどう払おうかという政美さんの問には答えず、彼は彼女らを酒に誘ったと言う。
しこたま飲んだ後で、政美さんが印税の件を持ち出すと、彼は頭をかきながら「百万
枚売れたら、僕に酒でもおごってください。」と答えたそうである。

 キム・ミンギ追記

 この「朝露」は、韓国の、いや今では北朝鮮のひとびとにも愛唱され、国民歌謡と
言って良いほど知られ、歌われている。84年にNHKが初めてハングル講座をやった
時にこの曲を(発売されてもいないのに)テーマ曲としたことは今にして思えば慧眼
あった。昨日、韓国人の造形作家、李寅煕(イ・インヒー)が府中美術館で行ってい
る公開製作展のパーティーに行ってきた。憶えておいて欲しい。彼はおそらく、美術
史に名前を残す男。その彼とアカペラで、件の「朝露」を歌ってきた。その会場でも
尋ねられた。「キム・ミンギはどうすれば買えるのですか?」残念ながら、現時点で
は「韓国のCD屋で」、としか言い様がない。爽爽舎は、オルタナの輸入窓口としてソ
ノヒグラシというレーベルを立ち上げたが、本来はここで、輸入して、皆さんに買っ
ていただくくらいのことはすべきであろう。残念ながら、今はその余力がない。みな
さまに爽爽舎に力を!

モネ雑感 −盛岡にて 2002年1月18日

仙台まで行ったついでに雪の盛岡まで足を伸ばしてきた。岩手県立美術館の独自企画、
モネの睡蓮展を見るためだ。パリのオランジュリー(オレンジ園という意味)美術館
の二室の壁面を取り囲む睡蓮の中に立った時、ここが浄土かと思った。変幻自在な色
彩の中で咲き乱れる睡蓮のタッチひとつ一つが既にして画家のすべてであり、喜びで
あり、生命そのものだった。三昧とでも言うほかは無い、こんな境地があるのか?
四方を彩る色彩の音楽は入り乱れ、散乱し、笑いあい、魂を揺すった。呆然とする他
はなかった。涙と鼻水さえ流れた。(♪泣きなさい〜笑いなさい〜♪)

盛岡の作品はそれを裏切るものだった。睡蓮はかっちりと「構図」の中に納まり、西
洋人の画家の見る美しい映像として「構成されて」いた。絵からはみだす力は無く絵
として完成していた。持って帰りたいほどに「美し」かった。
ところがである。1914年辺りを境にして絵は抽象画かと思えるほどに変化してい
た。解説によるとモネは長男と妻を失い、おまけに画家としては致命的とも言える白
内障を患って五年間絵筆がとれなかったという。その沈黙の後、睡蓮は孤独な画家と
向き合い、いやむしろ画家自身となり、呼吸したりため息をついたり眠ったりしなが
ら、ぼこん、ぼこんと音を立てて咲き始める。色彩はにじみ、はみだし、揺らぎはじ
める。抽象と具象の境を画家はやすやすと超え、風景を見ている自分が画面を侵犯し、
むしろ睡蓮がわたしたちを見ているようだ。ひょっとしたら、白内障の所為もあった
かもしれない、対象はおおまかな色彩の点となって視角に飛び込み、それが(たまた
ま)睡蓮であったり、柳であったり、日本風の橋であったりする。もともと光の画家
といわれたモネはむしろ「見えない」ことによってこそ光と一体化したのではないか
などと皮肉なことさえ考えた。
圧巻は、日本風の橋のたもとに植えられていた藤の作品群だった。塗残しさえ有るカ
ンバスに、紫の光は踊り、歌っていた。それは残り少ない画家の命のうねりそのもの
だった。
盛岡は折からの吹雪でまるでブルース・コバーンの「雪の世界」のジャケットのよう
に白一色だった。風景のむこうに鞍形の雄大な山塊が薄金色に光っていた。「あれが
岩手山ですね」自信満々に尋ねると「いいえ、姫神です」という答えが返ってきた。

明けましておめでとうございます 2002年1月11日
集会  
2002年明けましておめでとうございます。
昨年は世紀の変わり目に相応しい大きな試練の年だったように思います。
9・11のテロ(そう呼ぶことには「左」右双方からの批判もあるとは思いますが)
は、戦後僕らがのっかってきた体制のいびつさと危うさを白日の下にさらけだしてし
まいました。今回の大量殺人を僕は到底容認できませんが、かつて「今夜ひとつにな
ろう」で歌ったように、それが言葉を奪われた人々のことばであるということは認め
ないわけにはいきません。アメリカの、そしてわれわれの「繁栄」が如何に多くのひ
とびとの怨嗟に取り巻かれているのか、に気付かないではいられません。
この間僕なりに答えを求めて雑誌や新聞の記事、書籍など読みあさりましたが、この
二冊の本には多くを教えられました。一つは、講談社新書で、アーノルド・ミンデル
というユング派の心理学者の書いた「紛争の心理学」。ミンデルは行動する心理学者
として、パレスチナ、北アイルランドなど紛争地域に入っていって、紛争当事者達に
よる和解のためのワークショップを10数年以上コーディネイトしてきたひとです。
その彼は「平和に話し合おうじゃないか」とか。「君の言い分も聞くのだから冷静に
話したまえ」などという論理の背後に有る「強者」のルールをあぶりだし批判します。
ことばを奪われて来た側にとっては、強者の引いたルールの上で「冷静に話し合う」
こと自体が極めて難しいのです。ミンデルは発言者が怒ったり、泣いたり、爆発した
り、挑発したりすることを肯定します。ルールが強者の目の前で破壊されることをむ
しろ歓迎します。アメリカの市民の誰もがテロにあってもおかしく無い立場にいなが
らだれもそう感じていないことに警鐘をならしています。今回のテロをある意味で見
通していたかのような、実にタイムリーで内容豊かな本でした。ミンデルとの出合い
は極めて大きな実りをもたらしてくれそうな予感がしています。
 さて、もう一冊はアフガンで15年医療活動を続ける中村哲医師の「医者井戸を掘
る」(石風社)です。この本に関しては朝日に外岡俊二氏の優れた書評も載ったこと
であり多くを語る必要が無いと思います。本屋には捌ききれないくらいの注文が入っ
ているということでした。いま、日本人がなすべきことをこの本ほど明らかに示して
くれている本はないでしょう。第三世界に密着した「戦闘的」平和主義。これは憲法
九条を後生大事に抱え込んで「平和が好き」と言っているだけの姿勢とは根本的に異
なります。自戒の念を込めていうのですが、国際貢献への覚悟抜きの平和主義は急速
にその寿命を終えるでしょう。もちろん、国際貢献=自衛隊派遣では断じてありませ
んよ!第三世界の人々とのなんらかの接点を持ち、汗をながすことです。So-Soも中
村医師に学びつつ、今まで培ってきたアジアへのパイプを今年はいっそう太くしたい
と決意しています。そのための楽曲の構想も既にあります。ふ、ふ、ふ、期待して下
さい。
 年末からこれまでクソ忙しかったのですが、仙台まで仕事にいったついでに盛岡で、
モネ展を見てきました。「見る−見られる」という関係のダイナミズムについてドッ
カンとくる見ごたえのある内容でした。次回はその感想と行きましょうかねぇ、、
 さて、最後に、今年こそアルバムを作るぞ!という決意表明をして新年の挨拶に代
えさせていただきやす。しつこいですが、僕なりのテロ事件と報復戦争に対する回答
としてこの間集会等で歌い歩いた「強き者の祈り」という曲の歌詞を載せて置きます。
御感想等いただけましたら嬉しゅうござんす。みんな風邪ひくな!!

  強き者の祈り
       −アメリカへ

強い者に寄り添う神が 耳もとでささやく
リングに上がれる者だけがルールに守られる

這いつくばっている者達は 見てるほかは無い
招待客の食べ残しに 蠅が群がるのを

   だって世界は秩序 だって世界は力
    哀れみは弱きもの達の足を萎えさせる・・・・

お腹を空かせた子供には 天国が応える
公平なルールに従えば 犠牲はやむを得ない
持たざるものの祈りには 確率が応える
しかしいつもそのサイコロを 振るのはこの「私」

     だって世界は秩序 だって世界は力
      たったひとつのこの世界を貫くものは「愛」

(相良直美風に)
愛、それは試練 愛、神は試す 愛、それは力、愛、それはMoney money money!!


大きな言葉を振りかざすしたり顔の男
神に守られたリングの上じゃ有無は言わせない
倒れてゆく者たちに哀れみを込めて言う
世界をむさぼる「自由」に栄えあれ!(ハレルヤ)

     だって世界は秩序 だって世界は力
     たったひとつのこの世界を貫くものはMoney Money Money

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